神田神社と神田祭
「神田神社・神田祭の歴史」
当初は毎年挙行されていた神田祭も江戸時代の天和期(1681)幕府よりの通達で、山王祭と隔年で開催されようになり、現代までもその形が守られている。行列立ての神幸祭や神輿の宮入参拝などが行なわれる一般的に知られている神田祭は基本的には2年に一度、5月15日に近い土・日曜日に行なわれる。
1 江戸幕府が開かれる(1603)まで
「神田明神」は海辺も近く鬱蒼とした森に囲まれた柴崎村(現在の大手町・平将門さまの首塚の地)の鎮守の神様として祀られていた小さなお社で、五穀豊穣や大漁祈願の祭礼や神事が村の民によって行われ、落穂集によると当時から参拝者も多く賑やかで、祭礼は舟祭の形式で毎年行われていた。
2 江戸幕府開府(1603)以後
徳川家康は慶長八年(1603)武蔵の国の江戸に江戸城を築城するにあたって、柴崎村の神田明神を神田山(駿河台鈴木町)へと移転させた。
二代将軍の徳川秀忠は元和二年(1616)に現在地である湯島台へと移し「江戸総鎮守」とした。
御祭神は、柴崎村(大手町)時代には三神合殿(天比理乃祥命・素戔鳴命[牛頭天王]・平将門命)といわれるが定かではない。
湯島台の時代から明神様の御祭神は[平将門命]一神となり、牛頭天王は地主神として[素戔鳴命・奇稲田姫・八王子]の三殿が別に造られ、後にその三社の祭礼は江戸の三天王祭として、その本社神輿の渡御は神田、日本橋、京橋の町人に熱狂的に親しまれた。
3 1700年以後
御祭神が平将門命一座では不都合な風潮のもと1700年以後の江戸時代の中期に一之宮[大己貴命(大黒さま)]を奉祭したといわれるが、町人たちにとっては将門さまの明神さまに変わりはなかったようだ。
即ち、江戸時代の元禄期以後は一之宮[大己貴命]、二之宮[平将門命]の本社御祭神のもと、神田祭行列(本社神輿、山車、練り物、附け祭りなど)が江戸城へ入城し、将軍の上覧を得る「天下祭」として行われてきた。
4 明治維新後
明治7年に二之宮[平将門命]は、かつて天皇家に背いた朝敵であると本社から末社へと格下げされ、新たなる二之宮御祭神に常陸国磯前社より[少彦名命]が奉祭された為に、氏子の町人たちはナント怒りにまかせ、その後十年間に亘って神田祭をやめてしまった。
明治7年に末社に格下げされてから110年後の昭和59年(1984)ついに[平将門命]は御祭神三之宮として復活され、昭和62年には氏子の募金により旧来の神輿と同型の屋形造りの神輿(右の写真参照)も完成し、この年より神田祭は三神おそろいでの神幸祭となった。