オリンピック選手団が着用したブレザーを作成
斉藤 鉄太郎 氏(小川町三丁目西町会)
今回は、東京オリンピック開会式において、選手団が着用したブレザーの作成に携わった斉藤鉄太郎さん(小川町にあるサイトーテーラーのご主人・現小川町三丁目西町会会計)にお話を伺いました。 |
≪ブレザーを作成することとなった経緯≫
まず話の前段になりますが、昭和26年に私の親父たちが設立した「東京テーラース倶楽部」という団体があったんです。我々の業界は中小企業ばかりだったもんですから、“みんなで一つのグループを作って力を付けよう”ということで、人間的にも信頼のおけるテーラーに声をかけて27店舗ほどで結成をしまして、積み立てをはじめ経営研究、ファッション研究、技術研究などをやっておりました。非常に結束力の強い団体で、当時の東京にはおそらくここぐらいしかテーラーのグループは無かったと思います。 で、実はこのメンバーがですね、1952年のヘルシンキ大会、1956年のメルボルン大会、1960年のローマ大会のブレザーを作成しているんですよ。というのもこのグループ設立の音頭を取った望月さんという方が、非常に行動力があってですね、さらに秩父宮殿下や体育協会のお偉方とも仲が良かったものですからグイグイ体育協会を攻めていっちゃって、「制服やるぞー」ってオリンピックの話が取れたんです。ちなみにヘルシンキ大会の後からは、メンバーは同じですが『ジャパンスポーツウェアクラブ』名義で作成にあたっておりました。 とまあ、そういう実績があるもんですから、いよいよ日本にオリンピックが来るというときに当時の日本体育協会から依頼がありまして。しかし、依頼されたのはいいのですが東京オリンピックとなると選手団とコーチ達をあわせて400名以上になるんですよ。ローマ大会までとは選手団の規模が違う。一気に2倍以上に増えた。それで我々だけでは対応できなくなって、大阪と名古屋の洋服屋さんに参加してもらって40店舗くらいで作成することになったというわけです。 ちょっと話が脱線しちゃいますけど…、この頃にも既製品の洋服はあったんですが、まだ割合的には圧倒的に注文服の方が多かった時代です。特に小川町や神保町の辺りにはとにかくテーラーが多くて、我々の町会の範囲内だけでも8軒のお店があった程です。明治大学とかこの辺りの大学には制服がありましたからそれを受けてたんですよね。シーズンになると「制服承り」ってバーンと看板を出してお客を呼んだもんです。そしてうちのお店の話だけじゃないと思うんですけど、大学を卒業した人がそのままお得意さんになっていました。当時の学生さんは社会人になったら背広を両親に作ってもらうっていうのが一つのスタイルだったんですよ。だからこの辺の洋服屋さんはみんな儲かったような顔してたよね(笑)ちなみに今でいうスポーツショップはミズノさんとミナミさんとイノウエスポーツ、この3つしかなかったんだよ。今と全然違うでしょ? で、話を戻しますが、今でもオーダーでオリンピックのブレザーを作ってるかって言ったら、今はもうやっていない。東京オリンピックの後、1968年のメキシコと1972年のミュンヘンまでは我々がブレザーを作成しましたけど、その後はイージーオーダーというか既製服が台頭してきて、大企業さんがブレザーを提供するようになった。その頃からだいぶ商業ベースというか、無料で提供する代わりに「うちが作りました」って宣伝もするようになってきたんですよ。やっぱり我々は中小企業だったんだな、ここまで出すお金が無かったし。その代わりアマチュアイズムということで体を張ってやりましたね。 Q.神田公園地区でブレザーを作成したのは斉藤さんだけですか? 現在も営業しているお店ではうちと原久さん(小川町北部二丁目町会の竹之内さんのお店)の2軒だけです。この辺りはテーラーが多かったけど作成に関わったお店は少ないです。東京テーラース倶楽部に入っていることが基本になっていたのでね。そうすると横のつながりが早くて、ツーと言えばカーってやってたんですよ。 ちなみに今日持ってきている赤いジャケットは、原久さんから借りてきたものです。うちにもあったんだけど…、引っ越しでどっかいっちゃった(笑)だからこの話(インタビューの依頼)をもらった時に、原久さんが持ってるって知ってたから「参考になるからちょっと貸して」って言って倉庫から出してきてもらった(笑) |
<参考資料1> 選手が着用していたものと同じジャケット(小川町二丁目にある原久さんより拝借) |
<参考資料2> 1968年メキシコオリンピックの際の協力に対する感謝状 |
≪ブレザー作成にあたって〜東京スタイル、そして各業界からの協力〜≫
日本体育協会から依頼があったのが、開会式の1年くらい前だったと思います。まずはジャケットを赤、ズボンを白に決めるにあたって、“ヴァンヂャケット”で有名な石津さんというデザイナーを招いて技術やファッションの勉強会をやったんですよ。当時世界のファッションではアメリカ・英国・フランス・イタリアの4つが主なスタイルでね、日本のスタイルっていうのが無かったから、「じゃあ我々で東京スタイルを作ろう」となりまして、我々の考えた東京スタイルをブレザー制作に生かしたわけです。 特徴はこの三つボタンと、肩のラインと胸のボリューム。日本人は外国人に比べて胸が薄いので、洋服で丸みをつけて体を大きく見せようとしたのがこの形なんです。この部分には非常に繊細な技術が必要で、当時の既製服の技術では絶対に出来なかったと思います。我々テーラーだから出来た形です。しかしこうやって東京スタイルっていうのを作りましたらね、東京の洋服業界から反発食いまして。「たかだか40店舗ぐらいの団体が東京スタイルだなんて」って言われてね(笑)でもね、頑張って世界に恥じないスタイルを作り上げることが出来たと思います。 この赤いジャケットもだいぶ時間が経ってますが、まだ色がきれいだよね。このジャケットの生地は当時の大同毛織っていう会社が寄付してくれました。1人分のジャケットを作るのに約3メーターの生地が必要で400人以上ですから大変な量です。また、この赤を出すのに見本をいくつも作って、大変な苦労があったみたいです。それからボタンと裏地も専門の業者が寄付してくれました。我々縫製業も無料ではなかったですが、相当安くやりました。日本体育協会の予算がたしか10万円くらいだったかな、これで帽子からシャツ、ネクタイ、ブレザー(上下)、靴下、靴、それから移動用のブレザーとカバンまで。これが出来たのは我々の奉仕の気持ちがあったからこそと思います。 でも世の中全体がオリンピックに向けて頑張っていた時代ですからね。日本でオリンピックが出来るなんて考えられなかったんだ。戦後10年かそこらでね。今考えると良くやったと思いますよ。新幹線も首都高も出来ちゃったし、日本中でオリンピックに対する純粋な思いが高ぶっていたんだろうね。 |
<参考資料3> 裏地やボタンにも五輪のマーク |
≪ブレザーを作る〜商売をおいてでも〜≫
うち(サイトーテーラー)では20着ほど作りました。主に陸上選手でしたが、ボクシングとヨットの選手のも作らせていただきました。 ブレザーを作るにあたって選手の体を採寸するんですけどね、採寸の段階ではまだ正式に選手が決まってないんですよ。なので補欠も含めて全員を採寸して寸法だけもらっちゃうんです。で、ギリギリになって選手が決まって、そこから急いで生地を裁断するわけです。競技によっては選手の決定がオリンピックの1か月前だったりして、なので我々も作成に取りかかれないもんだからいつ選手が決まるかってハラハラしたんですよ。そして選手になれなかった人はかわいそうだけど寸法を取っただけで終わっちゃったね。 採寸はお店にも来てもらったし、選手の所に行くのもありました。選手が合宿をしている所へ行ったこともあります。一番遠くだと琵琶湖まで行きましたね。ヨット選手の練習場まで、東海道線で。着いたと思ったら選手は湖の上遥か彼方で練習中でね、陸に戻るまでは採寸ができない。しかも戻って来てからもすぐには採寸させてもらえない。練習の汗を流したり、食事をしたりした後にやっと採らせてもらって、帰りは夜行でしたね。宿泊する費用がないから日帰りでした。 選手の体つきも競技によってだいぶ違っていまして、これは仲間たちから聞いた話ですけど、重量挙げの選手、今活躍してる三宅さんのお父さんは測った通りに作ったんじゃ背広にならないんですって。肩幅は異常に広いのにウェストが細いから形が逆三角形になっちゃう。こういうのを格好良く見せるために隙間を開けたりして工夫するわけです。あと柔道の選手、特に重量級の選手なんかは腕を曲げると筋肉で腕が太くなるから測ったとおりの寸法じゃ出来ないわけです。あと、どの選手にも言えることですけど、見た目よりも採寸の数字が大きいということですね。測ってみて「おお、あるな」っていう感じでびっくりしましたね。 採寸とか仮縫いの時に選手たちとは特にお話はしなかったけど、「10分から20分くらいは悪いけど“気を付け”をしておいてくださいね」ということくらいかな。ところがね、この“気を付け”ってのが意外と疲れるもので、10分もやっていられたら大したもんなんですよ。みんな疲れちゃって。ボクシングの選手なんかは普段の姿勢が既に斜めなもんだからだんだんと体が斜めになって行っちゃって大変でしたね。 採寸から出来上がりまでの期間はマチマチだったから一概には言えないけど、1か月は欲しかったね。仮縫いをして生地を合わせると後はこっちのペースだからいいんだけど、選手のスケジュールが合わないとその分遅くなるので慌てちゃうっていうのがありましたね。ギリギリになって選手が決まると仮縫いのためにまずその選手がどこにいるのか探さなきゃいけなかったしね。変な話、自分のお店のお客さんに「こちら(ブレザー)を優先させてくれ」とご迷惑をかけたこともありました。そしたらお客さんも「オリンピック選手と俺とどっちが大事なんだ。君のところとはもう何十年も付き合ってるんだぞ」と。笑いながら言って許してくれましたけどね。こういう話は私だけじゃなく、倶楽部のみんなもあったと思います。我々みんな間違いなくすごい力の入れようでした。それだけオリンピックは特別なものでしたね。 でもその甲斐あって出来上がったブレザーを見て選手たちも喜んでくれましたね。ただ、当時の選手は学生さんが多かったり、スポーツにばっかり打ち込んでいたような人達だからネクタイの締め方が分からない人もいたりして、教えてあげたりしましたね。 |
<参考資料4> ジャケットの包み紙に「ご健闘をお祈りします」の印字 |
≪東京オリンピックの開会式を見て≫
我々やっぱり洋服屋でございますので、このブレザーでもって世界に対抗してやろうという気持ちでおりましてね、他の国の制服も見ておりました。 日本選手団の入場が一番最後だったんですが、その入場行進を見たときに、洋服・制服で世界に勝ったなと、本当にそういう気持ちになりました。選手団の行進の動きも綺麗に、見事に揃っていたし、誇らしい気持ちになりましたね。後になって当時のボクシングの監督をされていた永松さんという方から聞いたんですが、控室でみんな練習してたんですって、オイッチニ、オイッチニって。その練習があったからあの見事な行進が出来たんですって。なんとなく日本らしいよね。 オリンピックの後の昭和40年頃にロンドンに行って、向こうでファッションショーをやったことがあるんですよ、英国の洋服屋さんを集めて。その時に「東京オリンピックの制服のメンバーですよ」って言ったら向こうの人も感心しましてね、「よくやったね!」て言ってくれましたね。 |
<参考資料5> 当時のサイトーテーラー(オリンピックまであと37日) ちなみに右側のジャケットで労働大臣賞を受賞 |
≪インタビューこぼれ話≫
Q.ブレザーなのにスポーツウェア? 東京スタイルとは関係ないけど、袖口のボタンが1つとか2つだと“スポーツウェア”なんです。これが3つとか4つになるとドレッシー(ドレス寄り)になる。一番ドレッシーなのが4つで、昭和の天皇陛下も4つだったんです。今の既製服なんかはみんな真似してるんですよ。あとネクタイも細いでしょ?これは当時の流行りで、フランク永井さんなんかがこんな細いネクタイをしてたんだよ。 Q.東京テーラース倶楽部は今? 人は随分少なくなりましたけどこの会は今でもありますよ。自分も竹之内君(原久さん)も含めて8名残ってます。食事をする会になっちゃってますけどね。いつ解散するか、いつ解散するかって冗談を言いながら、最も気心が知れたグループとして続いています。 Q.洋服作成の作業工程は? 採寸、裁断、仮縫い、縫製。最低で4人は職人が必要ですね。工程ごとに作業を分担してますがこの連係プレーが上手くいかないとその洋服は上手く出来ないです。うちの商売は本当に面倒臭い商売なんですよ。 職人も年を取りましたけどね、面白いことに60歳になって70歳を過ぎてちょっと目がおかしくなってもちゃんと針は動くんだよね。すごい勘なんだよ。目は悪くなってるのにキチーっと等間隔で針が動くんだよね。ボタン一つ付けるにしてもビシッとボタンが立ってるし、これぞ職人技だね。 Q.インターネットでは”ブレザーのデザインは石津さんがした”とも書かれていますが? 石津さんが全部デザインしたんじゃなくて、石津さんも一員ですね。我々のメンバーにもデザインする力を持ってる人がいましたからね。みんなで知恵を出し合って出来たデザインというところかな。でも最終的な決定権というか、制服を作る決定権は望月さんと我々にありました。 〜洋服の始まり〜 みなさん気にしたことが無いと思いますけど、明治5年が洋服の発祥なんです。所謂洋服が礼服として認められた。それまでは羽織袴が正装だったけど、明治4年に天皇陛下の勅諭があって、翌年に布告があった。これ(下の写真)は以前何かの洋服の記念日があって、その時にもらったんですけどね。これが始まりなんです。 |
<参考資料6> 天皇陛下の勅諭 |